ツイッターでは教師の「辛い」「やめたい」というつぶやきをよく目にします。
そういったマイナスツイートは長時間労働などの労働環境に関したものが多いです。
しかし、教師という仕事自体に悩みを感じているものも多いと感じます。
「学級経営がうまくいかない」
「同僚とうまくいかない」
「子どもたちとの関係が悪い」
「保護者対応が辛い」
「授業がうまくいかない」
と教師の仕事には悩みがつきません。
小学校教師をしていたので、そのような教師の気持ちがよく、よ〜く分かります!
私自身も教師生活14年間の間に3度、「辞めよう」と思いつめたことがありました。
3度目は実際に辞めましたが、1度目と2度目は「辞めよう」と思ったけれど思い直し「続けよう」という選択をしました。
その2度の「続けよう」という選択は、今思い返してみても、全く後悔はなく、本当に続けて良かったなぁと思います。
今、教師を辞めたいと思い悩んでいる方にとって、「辞めるか、続けるか」の選択をする上で、少しでも考える材料になればと思います。
1度目の「辞めよう」〜教師に向いてない〜
教師2年目、授業や学級経営がうまくいかず、もう先が真っ暗状態でした。授業のやり方がよく分からず、試行錯誤の毎日。
退屈な授業をしていたため、子どものストレスが溜まり、クラスも落ち着きがなくなり、高学年の女子特有のいざこざも増えていきました。
先輩からアドバイスをもらったりしましたが、なかなかうまくいきません。「自分は、教師に向いていない。」と自己嫌悪の日々でした。
学年は2クラスで、学年主任は市内でも評判の良いベテランの女性教師。頭の回転も早く、常に先を先を見通して学年の仕事をしてくてくれました。
クラスの運営も完璧で、子どもたちの行動も素早く、表情も生き生きしていました。(自分のクラスとは空気が全く違う、空気が澱んでいる感じ)
こんな状態になってしまったのは、いくつか要因があります。経験の浅さと、自分の無能さはもちろん、もう一つ大きな要因がありました。
それは「体育主任」という役職。
学校ドラマで、よくジャージをきている体育会系の男の先生のポジションです。運動会、マラソン大会、各種スポーツ行事や部活動(小学校なのに部活がありました。^^;)などを司る役職です。
2年目のポンコツ教師に学校からのキラーパスでした。完全にキャパオーバー!
体育主任の仕事は学校全体に関わることなので、何よりも優先しなければなりません。(今はそうとは思わない。自分のクラスが何よりも大切)ただでさえ仕事が遅いのに、体育主任の仕事に追われ、学級のことが疎かになり(後回し)になり、子どもたちとの距離も遠ざかっていきましたとさ…
なんとか踏ん張り、教師2年目が終わったものの精根使い果たしていました。
1度目の「続けよう」〜教師としての喜び〜
そんな私は次の年度は何故か1年生の担任になることが決まりました。当時は若手の男性教師が少なく、1年生の教師はとても珍しく周りにも驚かれました。
春休みに、教員向けの講演会に誘われました。霜村三二先生という埼玉県の実践家のお話でした。そこでの言葉に私は救われました。
「いいんだよ」 たった5文字の言葉。
毅然としたクラス経営をしなければならない。そのような思いから、自分自身も無理していました。
そんなことをしなくても、ありのままで「いいんだよ」できなくても「いいんだよ」子どもにも!教師にも!
その言葉を胸に新1年生を迎えることができ、子どもたちと素晴らしい1年間を過ごすことができました。
「いいんだよ」という言葉とキラキラした1年生に救われ初めて教師という仕事の喜びを知りました!
2度目の「辞めよう」〜学級崩壊という地獄〜
初任校から異動し、学年1クラスの小さな学校へ異動しました。
その学校でも教師として楽しく充実した日々を過ごすことができました。
そして、5年後、初の大規模校へと異動しました。
教師9年目ということですっかり自信をつけ、意気揚々と新天地に乗り込みました。
が、そこで待っていたのは、まさに地獄の日々。
それまで単学級で、1クラス15名程度の小さな学校でゆったりのびのびと過ごしていた私にとってギャップが大きすぎました。
クラスの人数は37名。一気に20名以上も増えました。
仕事量も倍増。
単学級からクラス数も増えたので、それまでなかった学年の仕事や会議も増え、退勤時間もそれまでに比べプラス2時間。
クラスは男子がなかなかの強者ぞろいで圧倒されてしまい、いじめ問題も発生して、まさにパニック状態。
あたふたし、迫力もなくなり、弱っていく担任に男子たちが黙っている訳もなく、どんどんクラスは荒れていきました。
夏休み前には家から出るのが辛くて、動けなくなり休んでしまったこともありました。
その後も壮絶な日々で、病院にもお世話になりながらもなんとか生きてその年を終えることができました。
教員には療育休暇があるので、何度休もうかと悩みました。そして「辞めたい」という思いにも襲われました。
2度目の「続けよう」〜娘の存在〜
「辞めたい」という思いを留まらせてくれたのは、娘の存在です。
逃げるように退勤して、家に帰ってくると当時1歳になる娘が嬉しそうに出迎えてくれたのです。
病んでいた私は学校では、上司も同僚もクラスの子どもも全てが敵に見えていました。
そんな私を娘は助けてくれました。
娘がいなかったら、辞めていました。
「この子のためにも続けよう!」
おかげで、壮絶な1年間を終えることができました。
次の年からは低学年を受け持ち、少しずつ教師としての自信を取り戻していきました。
3度目の「辞めよう」〜幸せを軸に生きよう!〜
教師13年目の冬に私は、学校を異動することを決めました。
次の年が最後になるかもしれないと漠然と思いながら。
その年はコロナが猛威をふるい、分散登校などがあり、クラスが全員揃ったのは6月からとなりました。
その年の秋頃、ボス(校長)から管理職になるための研修会に参加するように半ば強引に勧められました。
その翌日、そのお誘いを断りました。
そして今年度で退職することを伝えました。
退職を決めた主な理由
・大人の都合で子どもが尊重されていない
・無駄な会議や研修、お役所仕事ばかり
・教師共働きで家族が疲弊している
・教育内容の縛りが多すぎる
・労働条件の改善がみられない
上記は退職理由の一部です。まだまだまだまだありますが、このくらいにしておきます。
日本の教育に対する不満は数知れませんが、私の教師14年間で感じた教育のイメージを言語化すると『子どもは2の次、3の次で大人の都合の見栄え主義教育』です。
授業にしても、行事にしても、会議や研修にしてもこの言葉が貫いています。
見栄え教育ばかりしているので、国際教育力も年々下がる一方です。アジアの国々にも次々に追い抜かれています。
…愚痴ばかりでごめんない^^;
「それでも教師という仕事は素晴らしい」
教師をしていたころよく言っていた言葉は「教師の仕事は2:8」
8は子どもの成長に還元されない仕事(会議や研修、文書づくりなどのお役所仕事)
2は子どもの成長に還元される仕事(学習指導、直接子どもとかかわる時間)
2の部分は今でも誇りに思っている素晴らしい部分です。退職を決めてからの半年間は外野は無視して、2の部分に専念しました。
おかげで、クラスの子どもたちとの絆は深まり、最高の別れができました。
担任として最後の集合写真。
私も子どもたちも満開の笑顔。
こうして教師14年間の歴史に幕が降りました。
その後、少しだけ専業主夫を楽しみ、児童福祉施設での勤務を経て、現在はモンテッソーリ教育を学ぶ学生をしています。それまでの教育観とは180度違い、楽しく学んでいます。
無事に資格を取ることができれば、また子どもたちとの日々が帰ってきます。
「幸せに働く」
「誇りをもって働く」
を軸に働いていきたいです♪